2005年12月20日
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 パンジャーブ州の州都。人口は約800万人で、カラーチーに次ぐパキスタン第2の都市。
 インダス川につながるパンジャーブの5大河の一つ、ラーヴィー川の南岸に広がる平地に広がり、インドと国境を接する。
旧市街地は周辺に比べやや標高が高くなっているが、全体は平野になっている。

 地名の由来に関しては、パンジャーブ州の5年生の教科書に以下のように紹介されている。
 「(ラーマーヤナの英雄)ラーマチャンドラには双子があった。一人の名をラヴァ、
 もう一人の名をクシャといい、ラヴァはラーホールを、クシャは(ラーホールの東南50キロに位置する)カスールを築いた。」伝説の真偽はともかく、パキスタン、特にパンジャーブの人々が、この町の古い歴史をいかに強調し、それを誇りにしているかが理解できる。

 長い歴史を持つこの都市には、11世紀に活躍したダーター様(アリー・フジュウィーリー、1072年ごろ没)の霊廟が残るが、歴史的にも、ガズナ朝がこの地を支配した頃から言及されるようになった。14世紀初めにはモンゴル軍の、14世紀末にはティムール軍による侵入を受けた。
 ムガル朝(1526〜1858年)の間、ラーホールはパンジャーブ地方の政治的、文化的中心として栄え、現在残る旧市街の原型もムガル朝の初めに造営されていた。
3代アクバル大帝の治世では1584〜98年の間、また4代ジャハーンギール帝の時代の1622〜27年にはムガル朝の宮廷がこの地に置かれた。
 ジャハーンギールは幼名をサリームというが、サリームと宮廷内の踊り子アナールカリーの悲恋物語は「アナール・カリー」という題名で20世紀初めに戯曲化され、映画やドラマとなって現在も上演されている。ラーホールの中心部にはこの踊り子の名を冠した「アナールカリー・バーザール」が今も残る。白大理石でできたジャハーンギール帝の廟はラーヴィー川の対岸に残っている。

 第5代皇帝シャー・ジャハーンはこの町の東部に「シャーリーマール庭園」を造営し、第6代皇帝アウラングゼーブは旧市街に接する場所に「バードシャーヒー・マスジド(モスク)」を建てた。
 バードシャーヒー・マスジドは世界でも最大級のモスクとして知られ、赤砂岩と白い大理石が調和した壮麗な建造物である。また、マスジドの正面にはラーホール城塞があって、 謁見の間(ディーワーネ・アーム、ディーワーネ・ハース)、鏡の宮殿(シーシ・マハル)、真珠のモスク(モーティー・マスジド)など優れた建築物が見られる。

 18世紀初め、ムガル朝の凋落とともに、パンジャーブで勃興したスィク勢力がラーホールを攻略、1767年にはスィク王国の首都となった。ハヴェーリー様式と呼ばれる煉瓦と木材を組み合わせ、欄干を持つ邸宅はこの時期に多く建てられた。

 19世紀にはイギリスが勢力を伸ばし、1849年にはイギリスによってラーホールがパンジャーブの都に制定された。これにより、イギリスはラーホールに高等教育機関や博物館などをつくり、多くの出版社ができた。
 市内にはパンジャーブ大学、ガヴァメント・カレッジ、ディヤール・スィング・カレッジ、エイチソン大学、フォアマン・クリスチャン・カレッジなど、多くの大学が、100年前の赤煉瓦の造りの壮麗な建造物とともに今も残る。
 「断食する仏陀像」で知られる、パキスタンで最大級の博物館、ラーホール博物館も当時の面影を残している。

 それまではペルシア語とパンジャービー語が用いられていたこの町で、ウルドゥー語による教育や出版活動が盛んになると、ウルドゥー語を媒体とする文人たちの集まりも活発化し、新聞、雑誌のみならず、文芸誌や女性、子供向けの雑誌も刊行されるようになった。 かつてウルドゥー文学はデリーやラクナウーなど、現在のインドを中心地として栄えたが、 インド・ムスリムの政治的、社会的な重心がパンジャーブ地方に移ると、ラーホールはウルドゥー文学の中心地としても急速に発展していったのである。

 イギリス支配下のラーホールでは軍管区が発達し、アングロ・インディアン様式とよばれる洋館が目抜き通り「マール通り」を中心に多く建てられた。地名には「マール」をはじめ、「チャリング・クロス」などロンドンの地名が残されている。英領期の名残のある建物としては、中央郵便局、パンジャーブ大学、YMCA、高等裁判所などがその代表で、最近では夜間の間接照明によってラーホールの夜を美しく彩っている。

 パキスタン独立時(1947年)に現インド領の東部パンジャーブから多くのムスリムが流入し、一方でヒンドゥーやスィクがインド側に移住した際、数十万人規模の犠牲者が出る悲劇が起こった。この騒擾についてはウルドゥー語で多くの文学作品が発表された。

 独立後の混乱を経てラーホールはパンジャーブの中心地として発達し、周辺地域の人口の流入と共にさらに規模を大きくした。市中心部を通るマール・ロード周辺のみならず、 都市の肥大化とともに居住空間も郊外へと広がり、空港周辺の軍管区やパンジャーブ大学新キャンパス周辺などの開発が進んだ。これにより、軍管区のフォートレス・スタジアムや住宅地であったグルバルグ地区などに、商業施設や飲食店が数多く出店し、繁華街も郊外へと移動している。2003年には新空港が完成した。


参考文献 応地利明 2002 「ラーホール」『新訂増補 南アジアを知る事典』平凡社

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